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浜辺の診療室から

老いていくと “生”が消去されていく?
(死と向き合うこころ 第2回)

  • 高齢者の終末期

動きが乏しくなった入院・入所者は、ケアする総量が少なくなるのでしょうか、変わらないのでしょうか、それとも増えるのでしょうか。その点は、意見が分かれるところかもしれません。ケアを受ける側の要素もあるでしょうが、何を負担に感ずるかという、ケアする側の気持ちもあるからです。

 

ともあれ反応が乏しくなった老いびとは、やがて“老衰”の状態に入っていきます。顔色が悪くなり、傾眠状態になり、脈拍が微弱になり血圧が下がっていくのです。終始ノドがゴロゴロいって、手足の色が悪くなるようにもなります。そのときケアしているスタッフの多くは、「急変した」といい、家族に電話して連絡を取ることがあります。

家族を施設に入れたあと、毎週とはいわなくても月に一度面会に来る家族がいる一方で、入所してから何年も電話だけという家族もいます。そうした事情は、近隣に住んでいる、いないにかかわりません。

 

家族から「病院に送ってください」との指示があれば、施設は救急車を要請することになります。行く先はもちろん病院です。

けれども病院とは本来、傾いたバランスを医療の力で立て直す場所です。だからこそ受け入れた病院側は、搬送されてきた老い人を前に「この人は立て直れるのか」といぶかり、「病態を立て直したところで、総体としてはよいことになるのだろうか」と迷います。迷う理由は、生命つまり生きることに対して、医学を盾に刃向っている、といったうしろめたさがあるからです。迷い、いぶかり、うしろめたさを感ずる理由を、ひとことでいってしまえば、“生”への背信行為にあります。

ですから病院側は「施設や家族には、老い人の命を敬う気持ちがないのか」と怒るのです。

けれども搬送要請する施設や家族は、こう否定します。

「とんでもない。生きていて欲しいからこそ、つまりこのまま放置することは、命を敬う気持ちが強いからこそ、病院に送り込むのです」。

 

そこには、生の肯定がある……少なくとも、あるようにみえます。

だとしたら、老い人の手を握ることもなく、髪をなでながら語ることさえしなくなっても「病院に送ってください」と指示する理由は、どこにあるのでしょう。

わたしは、 “生”そのものが消去されてい・る・可能性を、密かに疑っています。

消去されてしまえば、肯定も否定もありません。“モノ”があるだけです。

目次

認知症

高齢者の終末期

老いるということ

新型コロナウイルス感染症

心療内科

介護・医療・福祉の現場から

生をめぐる雑文

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