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浜辺の診療室から

ニッポン社会は 白から透明へ

  • 生をめぐる雑文

 

ホワイト化社会という概念が社会学分野で指摘されています。表向きのトラブルや摩擦を避け、すべてを丸く収める昨今の社会的風潮を指しているようです。

この現象は、争いを避けることを善とし、全員が「正しさ」を表明しながらも、深い議論や摩擦を避けることで、表面的な平穏を保つという特徴があるとされます。

 

ホワイト化社会の流れは、コンプライアンスの強化や、SNSにおける炎上リスクへの過敏な対応など、現代社会で日常的に見られる傾向と一致します。

しかし、この「誰も悪者にならない社会」の行き着く先は、単なる「ホワイト化」で終わらず、「透明化社会」に傾斜していくとの指摘があり、そこではより深刻かつ特異な社会形態が待っているといった予測もされているようで、気になっています。

ちなみに透明化社会では、フルスペック監視社会の到来や、情報公開の徹底により透明性が加速される結果、秘密や失敗がさらに許されなったり 個人の尊厳が奪われるリスクが増すほか、社会の周辺部は逆に不透明度を増すため見えにくくなり、結果として差別や排除が助長されるなどの点が懸念されています。

 

これまで人は、うれしさや痛みや悲しみ、達成感、役に立てたことなどから生きかたを形作ってきました。そこでは例外なく、自分の経験が基盤になっていました。

しかしネットとAIの登場以降、ネット情報とAI分析から、自分の視野はなんと狭かったことか、なんと浅はかな考えだったことか、少しは誇れると思っていた経験は、正しい情報の前に無力だったことを思い知らされたと、うつむく人が増えています。

 

それなら、経験と情報をうまくブレンドして生きていけばいい――つまりホワイト化の風潮に触れても、議論や摩擦を避けながら そこそこ優しく器用に生きる選択肢をチョイスし、ホワイト化社会の中心で はんなりと生きていくといった生き方をすればいいじゃないか、といわれそうです。けれどもじつは、そう簡単は話ではありません。

理由は……ホワイト化社会の実態が「不安に対する耐性が低下してしまった状態」だからです。

経験と情報をうまくブレンドすることは、テクニカルには可能です。

けれども心理的には困難です。なぜなら曖昧でゆらぎ、修正が効くものが経験であるのに対し、情報は即時的かつ断定的で、比較が容易だからです。

混ぜようとすれば、たちまち葛藤が生じます。

 

自分の経験値に不安を抱き、無力感を覚えた人は、膨張する不安への対処を「固定化された正しさ」に求めるようになっていきます。

その正しさは、ネットやAIが与えてくれると、少なからぬ人が信じています。

ホワイト/透明化社会は、角度を変えて見ると、人が人を裁くことに慣れすぎた社会であるのと同時に、自分が裁かれることに怯えすぎた社会になっています。そこは、人が人を裁く場所と大きく距離を取りながら、自分も誰かを裁く場所に回るといった倒錯的自己矛盾を抱えた人が群れています。

匿名の群衆が正義を名乗って透明な監視のもとで処罰をする行為が、古典的なスケープゴート理論と異なるのは、行為の本質が個人の未熟さでなく、防衛反応に根づいている点にあります。

 

高度成長を遂げたニッポンに訪れた成熟社会では、生存の危機が薄まり、快適さが主目的になりました。古来から続いてきた美意識が洗練されたかたちで浮上し、徹底管理された状態も、新たな美として歓迎されました。こうした新文化が、するするっと受け入れられるようになった土壌には、かつて山本七平が『「空気」の研究』で指摘した“空気で察する同調圧力” もあったのでしょう。

そして、この土壌を下支えしている本質的な文化要素が、2つあります。

ひとつは「和を重んずる文化」です。勝つことより場を壊さないよう、正しさより波風を立てぬようふるまう姿勢です。

もうひとつは「恥の文化」です。悪を働いたかどうかより、人にどう見られるかを行動基準として、失敗しないよう、叱られないよう、他人に迷惑をかけないような行動が極度に重視されてきました。

 

欧米諸国と異なり、ニッポンは内戦や宗教対立、人種間対立をほぼ経験することなく成長してきました。「武器を取るのだ、わが市民よ!……不浄なる血で我らの畑を潤せ!」と謳っているフランス国歌や、「さあ隊列を組め、我等は死をも恐れない」と謳うイタリア国歌を和訳で知ったとき、多くの日本人が眉を顰めるのは、幸いにもこうした歴史がなかったからでしょう。

「荒れた現実」を受け止める体制が弱く、荒れてきたとしても、それは誰かが対応し、是正してくれるだろうと思ってしまう……これも文化といえば文化です。

そのような理由から、社会が色を失っていくかのように名づけられたホワイト/透明化への傾斜は、望むと望まざるによらず、また善悪の評価を待つことなく進むだろうと、わたしは思っています。

 

多くの人が善人の集団になりすぎた社会が生む心理的帰結――それがホワイト化/透明化社会であるなら、わたしたちは明日からどうすればよいのでしょう。

セルフケアの第一は、過剰で表面的な善意を手放すことです。善意や感謝はあってよいでしょう。家庭内でも友人関係でも職場でも、“役に立った” や“ありがとう” や“いいね” が飛び交っています。

そうした用語を繰り返し表出したい気持ちもわかりますが、一方で 従来あったはずの心地よさが消えていないか、なにか大事なものから目を背けていないか、周囲を見てみてください。

次は、刺激から一足飛びに反応してしまう回路を断ち切って、評価の場と距離を取ることでしょう。にわか知識で、あれにもこれにも首を突っ込んで意見する行為から卒業する勇気も必要です。

また正義を振りかざすこともやめ、「見せない善」をキープする生きかたに立ち戻るのも、効果があります。自分のなかにある攻撃性を否定せず、かといって表出することもせず、創作や体を動かすことで分散させるといった姿勢を勧めます。

 

あるいは博学的有能さはAIにゆずり、すべてを知っておく必要はないと肚をくくったあと、自分らしさや、本来やりたかったことはどこにあったのか こころの声に耳を傾けてみるのも、悪くありません。

そして最後に、善い人であり続けようといった努力は、もう捨てましょう。

 

これらが、ホワイト化/透明化社会に対する静かな抵抗になります。正しく輝くことではなく、ほどよい色と影を持って生きることが、長く人であり続けるための技術です。

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