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健康長寿サロン

災害関連死から身を守るには(後段)
死を減らすカギは、薬、トイレ、防災計画

本年(2024年)1月1日午後4時過ぎに起きた能登半島地震のニュースをみて、実際の災害から時間が経ったあとに亡くなる災害関連死という用語をよく聞くようになった。

災害関連死から身を守るためのノウハウを、とのリクエストがありました。

 

 

(前段からの続き)

発災のあと、災害関連死はまず一週間目の時期から増え始め、一か月後、二か月後と増え続け、発災から三か月を経たところで8~9割に至る、というのが典型像です。

けれども災害関連死から身を守りたいと皆が思ってみたところで、自分だけの努力では限界があることは、前段で触れたとおりです。

 

災害関連死による犠牲者が生まれ続ける期間、災害現場ではどういったことが起きているのでしょう。災害関連死の全体像を俯瞰する目的で、災害医療活動という側面から被災地の動きをみていくことにします。以下は、『東日本大震災 石巻災害医療の全記録』の解説を執筆された内藤万砂文医師(元長岡日赤病院救命救急センター長)のまとめから抜粋引用し、補足を加えました。

災害関連死は、 2.の“急性期・亜急性期” までに起こる

1.超急性期(発災から数日後まで)

災害発生から数日後までの期間では、災害により負傷した傷病者の救出と救助、救命のための医療が行われる。発災直後の行動が生死を左右することになる。まず逃げ出すこと(自助)、逃げ遅れたなら近隣の人々に助け出してもらう(共助)ことが重要。

高齢者や女性、子どもや病人のように逃げ出す力が弱い人は災害弱者と呼ばれる。消防や自衛隊による救助活動(公助)が組織的に動き出すには時間を要する。阪神・淡路大震災では、公助で救出された傷病者は多くなかった。よって公助に過大な期待をする受け身の姿勢では、災害時には生き残れない。近隣住民で助け合えるコミュニティを作っておくことが大事。

 

超急性期に救出される傷病者は、外傷患者が主。近隣の医療機関に搬送されて救命医療が施される。参集したDMAT(災害派遣医療チーム)は、病院支援や広域搬送に取り組むことになる。

救助活動と並行して、その場で医療活動をすることがあり「瓦礫の下の医療」と呼ばれる。JR福知山線脱線事故では、3名の傷病者の救命につながった。

 

一般救護班は、避難所での救護活動を行うことになるが、発災直後の避難所は、取るものもとりあえず逃げ込んできた人が大半であるため、医療の観点からは注意を要する。被災時は極度の恐怖や興奮から、自分自身のケガや体調不良を自覚できていない人が少なくない。病院での治療が必要な人が紛れ込んでいる可能性があるためである。

補足)

傷病者が発生している現場でトリアージ(傷病の緊急度や重症度に応じた優先度を決める作業)が行われるのも この時期であり、DMAT(災害派遣医療チーム)を主体とした救命救急医が担当する。

歩けるか、呼吸をしているか、呼吸数はどうか、循環状態はどうかにより、最優先治療群赤札を抽出し、被災地と離れた医療機関で一刻も早く治療を開始すべく、ヘリコプターなどによる搬送が行われる。赤札に準ずる待機的治療群黄札、さらに保留群(緑札)と無呼吸群黒札も、トリアージによって選別される。

黒札群は本来 搬送対象にならないが、東日本大震災では、基幹病院に多くの黒札者が搬送された。

搬送した自衛隊は、その理由を「亡くなっているとはわかっていても、現場に医師がいないため法的な死亡確認ができないから」と語った。死亡していると確認できるのは医師に限られると法に謳ってあるのだから、致し方なかったと思われる。基幹病院の霊安室がご遺体で一杯になった経験から、「もっと早い段階で自衛隊と協働し、院外の救助拠点でのトリアージをおこなっておくべきだった」と『東日本大震災 石巻災害医療の全記録』の筆者石井正医師は、書のなかで語っていた。

 

なお全国から集まってくるDMATをどの避難所に向かわせるかの “交通整理” は、2.で登場する災害医療コーディネーターが担うことになるが、超急性期には通信網が使えないなどの情報不足により必要な情報が上がってこなかったり、上がってきても不揃いで不正確であることが多く、コーディネーターの動きが制限されてしまうのも、この時期の難しさである。

 

また2024年の能登半島地震(1月1日発災)では、1月18日に現地に出発したDMATがあるとの報告もあるため、超急性期を過ぎたあとも、現場からの医療ニーズに呼応してDMATが要請され、災害関連死予防を含めた よろず対応を要請されているのではないかと想像される。

このように医師や薬剤師、看護師や事務スタッフがチームになって順次行われる医療サポートは、短期の派遣スタイルをとっている。理由は、原則として手弁当つまり食事から宿泊先まで自前で行うため長期間の滞在が難しいこと、さらに被災地以外の現場を動かしていたなかで、その時間を割いて被災地に赴くため長期の不在になると、勤務地の現場にもしわ寄せがくるためである。

 

この時期の傷病者は外傷患者が主であるが、クラッシュ(挫滅)症候群や低体温症のような内科系疾患も多く、救急搬送の対象となる。

クラッシュ症候群とは、災害や事故などで長い時間 体の一部が圧迫され、その後に圧迫が解除されることで再灌流障害が起こり、腎不全や多臓器障害など全身的な異常が起こる病態をいう。

また東日本大震災では、津波により冷たい海水に身体の大半が浸かって起きた「低体温症」の人が、クラッシュ症候群より多かったと『東日本大震災 石巻災害医療の全記録』に記されている。

 

 

2.急性期・亜急性期(数日後から状況が安定するまでの時期)

この時期になると救命医療の対象になる傷病者はいなくなり、DMAT活動は終了する。一般病院からの医療救護班、日赤やJMATによって、救護所活動や被災地内の巡回診療が行われる。

当初は負傷した人たちの処理が多いが、ライフラインの途絶や避難所生活が長引くと、生活環境の悪化に伴う内科的疾患が増える。具体的には、持病の悪化、服薬中断による持病の急性増悪、集団生活による疲労蓄積、体調不良の訴え、感染症の蔓延などが問題になってくる。

またこの時期には、災害が心的外傷となって精神的なケアが必要になる人が出てくる。眠れない、イライラする、怒りっぽくなるなど感情のコントロールがうまくいかなくなるといった症状が代表的。これらは災害時にみられる正常の反応であり「急性ストレス障害」と呼ばれる。被災者の話を受容的に傾聴するなど、こころのケアに配慮した対応が望まれる。

医療サポートする側にも配慮が必要。たとえば、ある避難所にいくつもの救護班が入れ替わり立ち替わり訪れると、微妙に治療方針が異なるため、繰り返される同じ質問に被災者が混乱した事例があった。そうならないように、被災地の医療ニーズを集約し、支援医療班の活動を調整する「災害医療コーディネーター」を設置する方向になっている。新潟県中越沖地震では保健所長がその任務にあたったが、そのシステムが機能して380チームによる救護班が混乱することなく活動できた。

 

またこの時期は、被災地の医療機関の復旧が急ピッチで進められる。地域の病院や診療所が再開されれば、救護班は撤収(引きあげ)時期を考え始める。救護班の役割は、あくまでも被災地の自立支援であることを忘れてはならない。撤収する時期を誤ると、救護班への依存心が増したり、生活不活発病を誘発させたりするなど、被災地住民にとってプラスにならない現象を招くリスクもある。

よって救護班は、被災地の行政や医師会と連携して適切なタイミングで撤収することが必要。

補足)

災害関連死が多数生まれるのが、この時期である。記述したとおり、熊本地震では、震災前と同じ自宅で亡くなった人は全体の4割弱を占めており、能登半島地震でも自宅にとどまっていた高齢者が多数いるとみられたことから、この時期は全避難所の状況把握と、自宅で暮らしている人たちの把握を含めた被災者の全体像の把握が、災害関連死の総数を減らすためには大事になってくる。

能登半島地震では、発災後6週間が過ぎたところでDMAT活動が終了した地域がある一方で、一部の地域は外部からの災害医療チームが、この時点でも応援に入っている。こうした差異は、医療関係者がどれくらい被災したかにかかっている。地域の病院や診療所が再開しても人員が足りないようでは、本来の機能が発揮できない。外部から集まった看護師や事務スタッフを、どこにどう派遣して応援に回ってもらうかを決めるのも、コーディネーターの役割である。

 

なお災害医療コーディネーターを置くシステムが導入されているのは、限られた一部の都道府県でしかない。コーディネーターとは仲介する意味だが、実際にはオーケストラの指揮者(コンダクター)のように、DMATの派遣や受け入れについて災害対策本部に助言したり、傷病者受け入れ確保のため関係機関と調整するなど、全体を統括して一本化する力量が災害医療コーディネーターには求められる。強い意志と実行力と、関係団体とネゴシエーションする力が必要で、東日本大震災では『東日本大震災 石巻災害医療の全記録』の著者である石井正医師(当時石巻日赤病院勤務、現東北大教授)の裁量に負ったところが大きい。

 

 

3.慢性期(安定期から数日後まで)から静穏期(災害準備期)

傷病者にとってはリハビリをする時期であり、避難所や仮設住宅では慢性疾患の悪化予防やストレス対策が行われる。抑うつ症状など精神科的な訴えも増えてくるため、地域の保健師などによる地道な活動が重要となり、必要に応じて精神科医との連携を図ることになる。

日常生活の回復に向けての活動が本格的になり、地域全体の再生を行う時期でもある。

復興がなされたあとは、次の災害での被害を最小限に食い止めるために、ライフラインの強化防災システムの見直しや構築を怠らない努力が必要。

補足)

高齢化や過疎化が進む地方では、破綻した上下水道や家屋の耐震化が必要とされるなかで、財政的な問題から地方自治体単位の耐震化は難しいとする意見がある。

 

 

 

被災地でクスリは どう調達され、配布される?

クスリは無料、だから普段飲んでいる薬が切れそうになったり、体調の悪化を自覚したら、保険証やお金がなくても医療が受けられることを思い出し、命最優先で医療機関を受診してください……と前段で記しましたが、被災地での薬剤調達、配布などはどうなっているのでしょう。

 

能登半島地震に向けて発信された情報をまとめてみました。まずDMATとして何度も災害現場に足を運んだ武田健一郎医師たちは、以下のように語っていました。

「薬が足りないものがあった。それを『どうしたらいいか』との問い合わせ電話があった。予想しないような用件もかなりあって、“どこにいえばその問題が解決するのか”、そういったところが難しく、いろんな人に相談しながら一つひとつの課題を解決していった。

簡単なものであれば5分ほどで解決するが、薬の解決に関しては90分くらいかかった。被災者の声に耳を傾けベストな解決策を探し続けたが、大きな壁として立ちはだかったのが、道路の寸断だった。

支援すべきものは時々刻々変化する」。

 

被災した石川、富山、新潟、福井の各県に対し、政府が災害救助法を適用したとの報道を受けた日本薬剤師会は、石川県の要請を受けたことを契機に、全都道府県薬剤師会の協力を得て支援薬剤師の派遣調整や、モバイルファーマシーの出動を開始していました。

 

 

モバイルファーマシーとは移動薬局のことです。

災害被災地のようなライフラインが途絶えた状況や、感染対策としての衛生面に配慮しなければならない状況でも活躍できるようルームエアコン、給水タンクが標準搭載されており、シャワーやトイレの搭載も可能な自己完結型のアウトリーチ型薬局で、導入された都道府県は宮城、大分、和歌山、広島、鳥取、三重、静岡、山梨、福岡などがあります。

 

また日本チェーンドラッグストア協会は厚生労働省からの要請を受け、市販されている解熱鎮痛薬や胃腸薬などの家庭薬、絆創膏(ばんそうこう)、ウエットティッシュといった衛生用品を、製薬会社や卸売会社の協力で集め、仕分けして箱に詰め直された薬品類は、避難所364カ所に2箱ずつ 計31品目が、1月13日から車両で配られました。

避難所では薬剤師らが薬の使い方を被災者に説明し、家庭薬については「医師が処方する医療用医薬品が届くまで、こういった薬で体調管理することができる」と話していました。

一方、循環器系や呼吸器系、糖尿病や甲状腺疾患など内分泌代謝系の持病を抱えている人にとって、普段服用している薬が無くなれば災害関連死のリスクが高まります。

そこで、ドローンなど無人航空機の活用を推進している日本UAS産業振興協議会は、石川県輪島市からの要請を受けたスタッフが、1月5日から現地入りしたとのこと。使用されたドローンは最大積載量3キログラム、片道8キロの飛行が可能2機。1月8~11日にかけて、市の文化会館から約3キロ離れた避難所の鵠巣小学校に6回、約8キロ離れた西保公民館に1回、医療用医薬品を輸送したということです。災害時にドローンを活用して物資を被災地に届ける試みは、国内初とのことでした。

避難所で市の担当者らが被災者から聞き取った情報をもとに、災害派遣医療チーム(DMATなど)と薬局が協力して医薬系備品を調達したことで避難所の孤立が解消されたため、ドローンによる輸送は終了となりました。

どの避難所でどれくらいの医薬品が足りないか、あるいは何十何百とある大小の避難所や救護所のなかで、どの避難所なら投薬が可能かといった情報は災害対策本部が収集し、医療救護班をどこにどれくらい向かわせるかといった調整は、災害医療コーディネーターが担うことになるのでしょう。

ともあれ災害関連死の総数を減らすには欠かせない被災地への医薬品供給は、トライ&エラーから学んだ叡智を生かしながら、リカバリー期に一歩、そしてまた一歩と向かっている気がします。

 

 

 

 

TKBの重要性を指摘した識者の意見と、防災計画書

さて自然災害は、文字どおり自然発生的に起こるものです。けれども災害のあとの行動は、自然発生的には起きません。すべては人が考えることから始まり、すべての対応は事後的に生ずるのです。

そういったところで「それは取り越し苦労であって、ひな形どおりの計画書を立て、青写真に従った訓練しておけば大半の災害は乗り切れる」と信じている人も、まだまだ少なくないようです。

それはたとえば、いくつかの自治体が作った防災計画書をみれば よくわかります。ホームページで公開されている自治体が大半ですので、自分の住んでいる地区自治体の計画書を、一度見てみることをお勧めします。分厚く綿密なように見える防災計画書の多くは総花式で、一つひとつが総論的で抽象的ということはないでしょうか。

被災者や被災者をサポートする立場になって、発災直後から一か月、二か月のあいだをどう乗り切るかが目に浮かんでくるようなら、マニュアルとして使えるはずです。逆に、何度読んでも目に浮かばないのだとしたら、分厚いマニュアルは被災者のためでなく、支援する側の立場でもない、まさに計画のための計画、議事録を残すための計画書になっているのでしょう。

たとえばすでに触れてきたTKB(トイレ、キッチン、ベッド)の問題。前段でも、災害関連死を防ぐには自助努力だけでは叶わず、劣悪なトイレ環境を改善すべしとの指摘が複数ありました。

識者たちの意見は、どれくらい防災計画書に生かされているのでしょうか。とある自治体の防災計画書には「必要に応じて移動式トイレを設置する」と書かれていました。必要に応じて、とは事前あらかじめという意味でなく、事後的に用意するという意味でしょう。

 

東日本大震災では、避難所となった学校のトイレの便器内に汚物が溜まりっぱなしになっていたため、便器に溜まった汚物を避難住民が自ら回収し、ビニール袋に詰めて校庭の隅に仮置きするといった悲惨な状態だったようです。そのあと、ある避難所でたまたま目にしたラップ式トイレと呼ばれるポータブル式トイレが100台近く支給済みだったことがわかり、各避難所で順次利用するようになったとの記述が『東日本大震災 石巻災害医療の全記録』にもありました。

災害関連死が減らせないホントウの理由は、トイレにある?

能登半島地震の被災地区でも、トイレは工事現場で使われるノッポで和式の移動式簡易トイレが並べられていました。あらかじめ指定されている避難所に、あとから運び込まれた簡易トイレは、夜間真っ暗闇で使いづらく、しかもあっというまに汚物であふれかえり、不衛生で異臭がする。視察経験者の話によれば、和式の便器にまたがったとき、もうそこに汚物が見えていたといいます。だからトイレに行きたくなくなるのですが、これが災害関連死や感染症を増やす温床になっています。

 

寒波がやってきた1月中下旬には、屋根に雪が堆積している簡易トイレが映し出されました。

相撲でいう蹲踞(そんきょ)のポーズが保てない足腰の弱った高齢者にとって、狭い和式トイレでの排便は困難を極めます。“弱者にはやさしく” と、日ごろ口癖になってきたニッポンですが、いざというとき「弱者は死んでも仕方ない」といっているようなものではないでしょうか。

まさに前近代的な移動式簡易トイレが 災害関連死の元凶であるとともに、現代でも災害国ニッポンの象徴になっているのは、残念なことです。

 

 

災害対策先進国から学べることは学ぼう

地震が多い国として知られるイタリアでは、TKB48という概念があります。災害時であっても、市民が普段営んでいる生活を保障するという市民社会保護の考え方が下支えになっています。地元の小さなボランティア団体などが、発災48時間以内に小規模避難場所を開設運営し、それ以降は被災地以外の州や国が大規模避難所を設営運営していくことになります。取り組みの主体になっているのは市民保護庁と呼ばれる国の部門です。

簡易ベッド、トイレ、キッチン設備、テントなどの備蓄は、平時から法令で義務づけているのですが、それらを支えているのは職能ボランティアと呼ばれる人たちです。物資の輸送や食事、医療などは、職能団体の専門職が担当します。

  

コンテナ型トイレカー(イタリア)    キッチンカー(イタリア)

 

交通費や宿泊費、食費などは国が負担し、被災地の自治体職員の安全と体力と人権を守る観点から、避難所の運営を被災した自治体職員が担うことはないとされます。

 

 

すべてをイタリア式にすることは難しいかもしれません。

けれども諸悪の根源になっているトイレについては、被災先進国から学んで、早急に防災計画書に盛り込むなどの対応が望まれます。対応内容は、有事の状況に合っている必要があります。

たとえば避難所になっている小学校の3年1組は女性専用トイレに、4年1組は男性専用トイレにし、そこには確保してあるラップトイレを数個ずつ配置する。プライバシーと防犯対策からカギ付きパーテションを造設するといった具体的表記が望まれます。使用方法を説明した紙を事前にプリントしてラップトイレと一緒にしておくといった、誰がみても一目瞭然の事前対策を防災計画書に盛り込んでおけば、発災直後からトイレの心配は減るはずです。

一方、パーテションの設営設置も大事になってきます。地区内の工務店さんと◎さんと□さんが中心にといった記載は不適切です。工務店の人たちや◎さん、□さんが被災していたら、現場に来ることができないためです。たとえば防災訓練の日に、集まった人たちでパーテションを実際に組み立ててみるといったトライアルがあってもよいでしょう。

 

前段のデータにあったように、災害関連死の比率は、被災後1週間、1か月、3か月で 3:4:3です。

これは、被災してⅠ週間以内に発生する関連死者が、早いスピードで生じているという意味です。

必要な備品の購入と、実際に運用できるかどうかといった本気度、つまり有事の際にどれだけ右往左往せずに済むかどうかは、各自治体の裁量にかかっているといえます。

 

 

 

具体性に満ちた防災計画書の作成や、実地訓練が課題

衣食住が奪われる大規模災害

災害の話をするときの難しさは、経験者が圧倒的に少ない点にあります。

戦後70年以上が過ぎたいま、深刻な被災経験のある人は少なくなっています。そのこと自体は幸いなことです。であればこそ、被災経験を持たない人たちが未曽有の災害を想像することは難しいのではないでしょうか。まだ行ったことのない国の小さな村について、世界地図を渡されてビデオを見せられ、具体的に想像してみましょうといわれているようなものです。

 

衣食足りて礼節を知るという故事があります。古い中国の春秋時代を生きた思想家 管仲(かんちゅう)の言葉を集めた『管子』に由来する故事成語で、着るものや食べるものに余裕が出てきて、初めて心にも余裕が生まれ、名誉や恥のことを考えるようになるというのがもともとの意味ですが、「生活が苦しいときは、礼儀や節度にまで気が回らないものだ」といった意味で使われることもあります。思想家だった管仲は紀元前645年に死去していますから、故事は古い古い時代にできたわけで、着るものや食べるものに事欠くほどの貧富差があったのでしょう。

現在も格差問題があるとはいえ、紀元前とはレベルが異なるはずで、近代から現代にかけて構築された社会は衣食住が確保されたからこそ成熟社会などと呼ばれるのです。

 

災害関連死を減らすには、生命の根幹を脅かす衣食住への対応を

その成熟社会の一角が 災害により崩れ、極寒のなかで食事が途絶え、自宅が瓦解して壊滅状態になった町から住む場所が消えた状態は、人々から衣食住の「食住」が奪われたことになります。紀元前とは異なり、衣食足りて礼節を知っていた一部の人たちが、衣食を突然奪われたのです。

礼節を知っていた人たちは不安を抱えて避難所に集まり、救援を求めている。その様子がテレビ画像で放映されると、礼節を知った他の居住区にいる人たちは何とかならないか、何かできることはないかと考えます。他人の痛みを、自分の痛みとして感ずることができるからこその行動です。

その表れが、たとえば銀行やコンビニに行って寄付する人たちであり、現地に出向いて炊き出しをする人たちであり、全自動洗濯機をトラックに設置して被災地に向かった運送業者の人たちです。

 

衣食住とは、衣服と食物と住居のことですが、生活するうえで必要な基礎という意味を含んでいます。衣は、人が生きていくための体温調整をサポートしてくれる大事な要素です。食は、体を動かすために、また空腹が満たされることで精神的にもイライラせずにすむ効果を提供してくれます。

そして住は、雨風をしのぐ大切な場所です。いくら服を着てお腹が満たされても、雨に濡れたり、寒風にさらされていれば落ち着いて寝ることができません。

人は、屋根や壁のある落ち着いた場所が確保されて初めて、人間らしい時間を過ごすことができるのです。大災害によって、生命は根幹が揺らいでいる状態になってしまい、それがひいては災害関連死を招くのであれば、発災直後からTKB(トイレ、キッチン、ベッド)を念頭においた衣食住の環境確保を急がねばなりません。

 

 

実地検証と過去の反省から生まれたDMAT 

そういえば能登半島地震が起きた翌日の1月2日、羽田空港で日航機が炎上する事故が起きました。379人もの乗客と乗務員全員が火災に飲み込まれることなく脱出できたのは、日航職員が日ごろから積み重ねた訓練のたまものだといわれています。すべてのことは訓練なしのぶっつけ本番ではうまくいきません。軽い事故なら偶然にうまくいくこともあるでしょうが、災害が重大になればなるほど偶然という要素は消えていきます。

 

一方で、血が滲むような努力を重ねても、及第点をつけられる対応がいつもできるとは限りません。とくに自然災害は、人間が作り出した構造物をあっという間に飲み込み、破壊するため厄介です。

それでも及第点に少しでも近づこうと人は努力します。DMAT(災害派遣医療チーム)は、阪神淡路大震災のあとから生まれました。これまでの対応では超急性期に生じた被災者を救うことができないと判断されたためです。似たような略語で精神的ケアを担当するDPAT(災害派遣精神医療チーム、発足は2013年)や、DMATの後方支援ともいうべきJMAT(日本医師会員による医療支援チーム、発足は2010年)も、1995年に起きた阪神淡路大震災がきっかけとなって後年生まれました。

 

明日から使える具体的な防災計画書と、実地訓練

毎年、9月初旬の防災の日に、各地で防災訓練や避難訓練が行われます。避難所に移動したあと、どういったトレーニングを積んでおくのがよいのでしょうか。あるいは防災の日でなくても、発災当日、翌日などの初動から一週間後、一か月後について、どのようなシミュレーションを描いて準備しておくのがよいのでしょうか。

DMATは訓練したあと反省会を開き、それまでのマニュアルを微修正していくと聞きます。

避難訓練を毎年していても防災計画書が修正されたことは少しもなく、また能登半島地震が起きて 多くの問題点が浮き彫りになってきたあとも 計画書の修正がなされないのであれば、その計画書は完成度が高いか、もしくは庶民の手から離れてしまった青写真ということになるのでしょう。

 

すでに述べてきたとおり、災害の「直接死」を減らすことは医療では不可能で、構造物の耐震化が大事になってきます。一方で、災害の「関連死」を減らすには、行政・消防・医療関係者・関係団体などの判断とフットワークが大事になってきます。それには日航職員がみせたような みごとなまでのトレーニングが欠かせず、その前にはかなり具体的なシミュレーションがあったはずなのです。

 

いきなり被災したとしても、明日から即刻使える具体性に満ちた防災計画書の作成と、それを踏まえた実地訓練を積むことが大事なのだろうと、これまでの被災記録をみて思いました。

 

 

 

参考資料)

『東日本大震災 石巻災害医療の全記録』(石井正  講談社ブルーバックス 2012年2 月20日)

『災害医療2020』(横田裕行監修 日本医師会雑誌第149巻・特別号Ⅰ 2020年6月15日)

「能登半島地震 支援すべきものは変化する 医療チーム・DMATが被災地で感じたこと(山形発)」(FNNプライムオンライン

2024年1月31日)

「能登半島地震では延べ7台が稼働、医師が感嘆する『移動薬局車』の活躍」(東洋経済オンライン 2024年1月18日)

「被災したとき保険証やお金がないとどうなる? 『災害救助法』下での医療費を徹底解説」(ダイアモンドオンライン 2024年1月19日)

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