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健康長寿サロン

ヒマをもてあます生活は 身体によくない?
自由な時間の過ごし方

以前と比べると外出する機会が減り、家にいても刺激がない生活になっている。外に出ることの必要性もさほど感じないし、したいこともなく漫然とした生活をしている。

ワクワクすることや、やりたいことがあればしてみたいと思うが、どうすればよいか とのご意見がありました。(前回からの続き)

 

 

上のご意見に対して、前回は個人的な趣味をサンプルとして紹介がてらお話し、やりたいことの見つけ方についても触れてみました。今回は趣味以外の要素について、お話しします。(なお次回は、「最近思うこと」と題してのフリートークによる座談会にて、本サロンへの掲載はしません)

 

定年退職したあと抑うつ状態になる人、ならない人

定年退職した人をテーマにした読みものは、たとえば城山三郎さんの『毎日が日曜日』や、渡辺淳一さんの『孤舟』があります。いずれも名著ですから、読まれた方も多いと思います。

毎日が日曜日になると「さて何をしよう」と悩む人が少なくないようです。その場合の悩みは、どうやって時間を潰すかといった消極的な悩みから、あれこれあるなかの何を選んで実行しようかと積極的な悩みまでさまざまでしょう。後者は、やりたいと思いながらこれまで時間がなかったため、できなかったゴルフや釣り、日曜大工や旅行などが代表のようです。

 

けれどもそうしたことと日々取り組むなかで、毎日はしんどいなあといったつぶやきを幾度となく耳にしてきました。やがて、やりたかったことへの情熱も冷めていき、自由になれる時間は手に入れたのに、何をすればよいのか途方に暮れるようになった人も、かなりいらっしゃいました。

 

定年退職が精神的に良い影響を与えるのか、それとも悪い影響を与えるのかについては、国立長寿医療センターからの報告があります。こころの健康は、定年退職の前後でどう変わるかについて調べたレポートによると、定年退職後に抑うつ傾向が増す人もいれば、逆に抑うつ傾向が減る人もおり、平均すれば 抑うつ症状は増えるとも減るともいえないというのが結論でした。

定年退職をいつ経験するかは予測できることから、定年退職前からよく準備していた人は、定年退職後にこころの健康を良く保つことができるのだろうと考察されています。定年退職後に自由な時間が増えたとき、何をして過ごすか計画を立てるなど、定年退職後の生活に向けて準備することが、定年退職後に充実した生活を送る手がかりになるはずと結ばれていました。

(国立長寿医療センター すこやかな高齢期をめざして ワンポイントアドバイス №45 定年退職の前後で、こころの健康は変わるのか?)

 

メリハリの利いた生活のススメ

つまり定年後に限らず、齢を重ねても気分変調がみられない方や、以前と比べて特段変化がない方は、これまでの生活を続けることで、すこやかな時間を過ごすことができるとみてよいでしょう。

一方、ひとりで生活している人が増えているのも事実ですので、参考までに「一人暮らし高齢者に関する意識(内閣府)」を、末尾に添付しておきました。高齢男性で気になる部分には(☆)マークをつけてあります。また高齢者の社会的孤立が懸念される一方で、(☆☆)にみられるように誰かと会話する機会が日常的にある高齢者は、楽しみが感じられる生活を送っているようです。

さて、やることが何もないといって、ひとりでテレビや新聞雑誌を見て食事をする生活をしていると、時間がずるずると過ぎていきます。起伏のない生活スタイルは、高齢者の脳にとって好ましくないことが近年、わかってきました。

脳は加齢とともに萎縮していきます。そのため脳の活動は年々低下する一方であると思われがちですが、ちがいます。新たな何かをあれこれ仕掛けることで、脳に新たな回路が生まれてきます。

そうであるなら能動的に脳を使う生活により、すこやかな暮らしを維持することができるはずです。

 

年をとってもバランスのよい脳を保つのに必要なこと――それは脳に良質な刺激を与えることです。刺激を受けることで、脳に新たな神経回路が生まれてきます。とはいえ、新たな回路を作ってやろうとやみくもに動き回っても、うまくいかないでしょう。結論を性急に手に入れようとすると失敗する理由は、順序が逆だからです。新たな回路が生まれるのはあくまでも結果です。自分にとって良質な刺激とは何なのかを、まずじっくり考えてみてください。

秘訣は「好きだったこと」への気づきにあります。理屈を飛び越えて“好きなこと” がベストです。

 

陶芸を始めた人がいました。しかしそのうち、やる意味がないとやめてしまいました。動機が適切ではなかったからです。知人に勧められた陶芸教室に通うことになったその人は、知人から「作品を贈ると喜ばれるの」と聞かされていました。けれども焼きあがった作品はご主人に笑われ、他の人の作品と比べても見劣りするものばかりで、すっかり滅入ってしまったといいます。

半年ほど経って、これならいいかもといった作品ができたので娘さんに渡したところ、ありがとうと受け取ってくれました。しかしある日、娘さん宅を訪れたところ、陶器は食卓に上ることなく、埃をかぶったままテレビの横に置かれていました。

 

趣味であっても、その他の活動でも、自分がしたいことならやっていて楽しいし、試行錯誤を重ねることでおもしろみが膨らんできます。しかし自分が好きかどうかわからない状態で続けていたり、誰かからいわれたからやっているような場合は、うまくいきません。誰かに差し上げるためにやる行為も、うまくいかないでしょう。100円ショップで便利なものがすぐ手に入る時代です。重宝されるモノは、そう簡単に生まれません。

 

陶芸が趣味である人が土をこねて焼き続ける理由は、やっていて楽しいからです。自分のために手を動かすのです。そのうち楽しくなってくると、おもいがけなく良い作品ができたりします。「それ、売っていただけませんか」といった声がかかるようになって、“陶芸が趣味” の人を卒業し、自分の仕事場を持つようになって名刺に陶芸家と書けるようになった人がいました。やがて土を求めて茨城の笠間に住むようになり、今では工房でご主人とともに陶芸三昧の日々を送っていらっしゃいます。

 

幸せホルモンに包まれると脳は活気づく

自分と相性が良いモノやコトは何かを丹念に探し、それをみつけて日常生活に取り入れていくと、リズムが出てきます。メリハリの利いた生活が開始されると、脳はいきいきして新たな回路が生まれやすくなります。しばらくすると、心地よさに包まれている実感が湧いてくるでしょう。

 

そういえば以前、このコーナーで「幸せ(ハッピー)ホルモン」の話をしました。

オキシトシン、ドーパミンといった脳内ホルモンの話でした。

復習すると、オキシトシンは幸福感を与える、社交性を高める、不安や恐怖心を和らげるといった効果が期待される脳内ホルモンです。見つめ合ったり手をつなぐ、抱き合うといったスキンシップ、家族とのだんらんや心を許せる友人との食事や会話などで、オキシトシンが効果的に分泌されます。

 

また相手を思いやって何かを分け与えたり助けたりすることで、オキシトシンの分泌は増します。

人にプレゼントしたり、親切にしたり、助け合ったりしても、オキシトシンは増加します。相手とは人間に限らず、ペットでもいいし、愛車でも好きな道具でも構いません。ちなみにモノに愛称を付ける行為も、モノが相手化されるためオキシトシンは増えるようです。

スキンシップのひとつであるマッサージには、思いやりによる効果も期待でき、マッサージは受けている側よりも、施術している側の方が多くのオキシトシンが分泌されるといった話題も紹介しました。オキシトシンは、人にやさしくすることで増すため「思いやりホルモン」とも呼ばれます。

  

 

もうひとつの脳内ホルモンであるドーパミン(ドパミン)は、分泌が活性化されると、学習能力や仕事能率のアップが期待でき、達成感、快感、喜び、感動などがもたらされます。

ドーパミンが不足すると、やる気が起きない、記憶力や作業能率が低下する、無関心・無感動などが引き起こされ、幸福感の低下につながるとされます。ちなみにドーパミンは、認知症のときにも話題になる脳内ホルモンです。過剰な状態では興奮以外に妄想や幻覚が生じ、不足すると無気力やパーキンソン症状が出てきます。

ともあれドーパミンは学習や作業などの仕事と関係していますが、加齢とともに減っていくので、食欲低下や性欲低下、無気力・無関心(アパシー)を招きます。このため、いつまでもドーパミンに期待するには、限界があります。

 

幸せホルモンのオキシトシンは加齢の影響を受けない

一方、オキシトシンは他者との関係性により分泌が増えますから、加齢の影響は受けません。ひとことでいえば、心地よさを感じているときに増える脳内ホルモンで、それにより脳は活気づきます。

誰かの役に立ちたいと活動している人や、社会とつながりがある人たちは、加齢とともにオキシトシンが増えているとの報告が2022年にありました。オキシトシンが増えることで得られる“満たされ感” は、利他主義やつながりを通して得られます。

社会活動を通して他者とつながることが推奨されている理由は、こうした根拠があるからです。

社会活動だけでなく、前回お話しした趣味活動を実行している時間帯では、想定外にうれしいこと(うれしい誤算、思わぬ発見など)が起きることも多く、これらも脳に好影響をもたらします。

心地よさ、発見、感動、やりがいなどは、脳の成熟にとてもよいというわけです。

 

逆に、不快なことやモノに囲まれていると、脳はストレスを感じます。好きなことを控える、自己管理を強化するといった行為も、結局は心地よさが得られないため、脳はストレスを感じます。

屈辱を味わったことをいつまでも思い出す行為や、絶対に許さないと誰かを根に持つ行為が根づいてしまった人をときどき見ますが、グレーに染まった生活をしている限り、脳がストレスから解放されることはありません。負のストレスがかかり続けた脳は、緩やかに疲弊していきます。この状態が続くと、柔軟性に欠けた思考しかできなくなっていきます。

 

相手の身になって考えることができれば、孤立は回避できる可能性あり

元来、頑固だったり気難しかったりする特徴を持っている人が歳をとると、知的能力や判断力などの低下と相まって、自分を抑える能力がますます弱まり、環境にうまく適応することができなくなります。もともとあった人格特徴がより際立ってくるためで、人格の先鋭化と呼ばれます。

 

本来抱えていた性格の特徴が際立ってくるだけなら、一部の人に限られた話になります。

しかし後天的に獲得した社会性も、加齢に伴って徐々に剝がれていきます。なかでも相手の立場に立って考えることは、人間関係を築く上で大事な要素ですが、50歳を超えるとこれが徐々に薄れていきます。もう少し説明しましょう。

幼少時は誰でも自己中心的です。やがて相手のことを考えるという能力が就学期に芽生え、社会に出てからは 相手の立場に立って考えることの大事さが身についていきます。

大事なのはそこからで、相手の立場に立って考える行為を積極的に会得しようと努力した人は、50歳を過ぎて70歳になっても80歳を超えても、劣化していくことはありません。

問題は、そうした理屈を知っていても、私の場合は別だよ と自分本位で生きてきた人です。

そのような人は50歳を過ぎ、定年を迎えると、自分本位の姿勢に拍車がかかります。

頑固で横柄で聞く耳を持たなかったり、手に負えない状態になった高齢者は、周囲の人たちが離れていくため、社会的孤立に陥っていくリスクが増していきます。

 

唯我独尊を貫ける人は立派です。また永井荷風のように、生まれたときはひとり、死ぬときもひとり、だから人はもともと孤独なものと悟る姿勢も立派です。

けれども人は、社会的生きものです。少しだけ、ほんの少しだけ目線を上げて、周囲にいる人たちの行為行動を見たり、声に耳を傾けたり、なにげない会話を交わす勇気を持つことで、生きやすさをふたたび手に入れることができるのではないでしょうか。

さてここからは、少しだけ重たい話をしてみます。

 

 

手を差し伸べるにしても、上から目線や してあげる姿勢にならないように

孤立する高齢者については、社会的問題になって久しい割に、対応策は難航しているのが現状です。NHK取材班がまとめた『無縁社会 “無縁死” 3万2千人の衝撃』が発刊されたのは2010年のことでした。細々と展開されてきた《ソーシャルワーク》や、英国が発祥地といわれる《社会的処方》も「わたしたちは手を差し伸べますから、遠慮なく乗っかってきて」といった姿勢が、いまも主流です。

ちなみにソーシャルワークとは「住民を地域で支える援助や、住民を支える地域づくりサポートを一体的に推進する方法論や行動」のことです。また社会的処方とは「慢性疾患などで長期的に支援を要する人、精神面での支援が必要な人、孤立していたり孤独を感じている人、その他 複雑な問題を持った人たちに対してケアを提供する」方法論や行動をいいます。

ソーシャルワークは、多くのサービスや社会資源の部分的なパーツとして、医療を捉えています。

それに対して社会的処方は、医療の視点から社会資源にまで視野を広げよういった発想です。

いずれもやっていることは似ていますが、両者は着想や着地点が逆ということになります。

 

しかしこうした姿勢は、いずれも上から目線と非難されることがあり、なによりプロダクトアウト的です。プロダクトアウトとは、会社の技術力やアイデアを主軸にして、顧客がまだ気付いていない潜在的なニーズにアプローチする方法をいいます。反語はマーケットインで、顧客のニーズをチェックしたり市場調査をしたりして、それらに合わせてサービスを提供する方法をいいます。

孤立する高齢者とひとくちにいっても、多種多様な世界です。たとえば誰でもいいから話をしたいと思っている人、相談に乗って欲しい人、ひとりの静かな時間が合っている人、過干渉はうんざりという人など……。ちょっとしたイベントを立ち上げたり、定期的な集まりを催してみても、いつも同じ人しか集まらないのだとしたら、多様性とか個別といった単語が企画する側にないか、あってもさほど意識しないまま、当事者たちの“よかれと思っているビジョン” を展開しているのでしょう。

   

 

孤立する高齢者は何を求め、何がイヤで、何に困り、何に失望しているのかといった視点に立てば、地域社会に対して動くのとは別に、個別なアプローチがもっともっと必要であることに気づきます。

しかし、言うは易し、行うは難しです。近年増えつつあるソーシャルワークとしての子ども食堂も、子どもという本人が利用を望んでいるにもかかわらず周囲の目を気にした親が利用に反対だったり、利用する子ども同士の人間関係が入り組んだ結果、途中から利用しなくなった事例を聞きました。

運営していくには裏方に回るオトナたちの目配り、気配り、心配りがいかに大事かを物語るエピソードです。利用する子ども本人にも、周囲の雑音は気にせずあなたが求めているなら自由に求めなさい、将来を見据えて自分をもっと大事にしていいのですよ、といったアドバイスが必要でしょう。

高齢者も壮年者も就学期にある人たちも年少者も、年齢の垣根を超え、また同胞やそれぞれの親しい人たちだけの垣根を超え、個々の人間として《人間浴》が生まれるような“安全基地” が理想です。

 

“無縁社会” のなかの孤立と孤独

ほんの少しの情報がないだけで立ち往生している高齢者は、少なくありません。周囲が思っているより、情報採りがうまくないからでしょう。外に出よう、趣味を持とうといったキャンペーンをいくら敷いてみたところで、聞く耳を持たない高齢者に その声は届きません。「ひとりで生きて、何がいけないんですか?」と答える人が『無縁社会』にも出てきます。

ですから残念ですが、孤立せざるを得ない高齢者が一定数いることは否めません。

 

ところで孤立と孤独は、似ているようでやや異なります。イギリスの社会学者ピーター・タウンゼントは、社会的孤立について「家族やコミュニティとほとんど接触がないこと」と定義し、客観的な状態を指すとしています。一方、孤独とは「仲間づきあいの欠如や喪失により、好ましくない感じをもつこと」であり、主観的状態であると述べています。

日本の場合、たとえば文学では「幼くして親なきを孤と言い、老いて子なきを独と言う」といった記述があります。これは高橋和巳の小説にある一節ですが、孤独の「孤」や「独」は単なる状態に過ぎず、孤独感や寂寥感とは別のものといった意味合いでしょう。

同じ日本でも、法医学の世界には「孤独死」という呼称があります。東京都監察医務院は異状死(病死以外の死)が出た場合に解剖を行う機関ですが、異状死のうち「自宅で死亡した一人暮らしの人の死を《孤独死》」とし、そのデータを公開しています。日本災害看護学会では、孤独死を「従来から周囲との交流がなく,地域から(社会的に)孤立をしている状況の中で,誰にも看取られず一人でなくなった場合」と定義しています。

ただし孤独死と孤立死は、定義の段階で現時点でも境界があいまいです。

 

孤独死と孤立死

一般的に孤独死とは「親族がいたり地域コミュニティなどに参加して社会との関わりがあるにもかかわらず、一人で亡くなってしまうこと」を指す用語とされます。一方で社会との関わりがない場合の死、つまり「社会とのつながりがまったくない状態で、ひっそりと亡くなった場合」は、孤立死と呼ばれます。仕事はなく、身寄りもなく、地域とのつながりもないなど孤立した状態で亡くなっていく人々。あるいは、他人や地域とのつながりはなくても、健康でありお金もあるのだから十分に生きていけるといっていた人が、ふと病気を抱えることになって人知れず亡くなった場合は、孤立死に分類されるようです。

孤独を抱えながらも、煩わしさや過干渉なお付き合いよりはマシと、孤独を味わいつつ日々を送っていらっしゃる高齢者はよいのです。一方で、孤独を抱えながら、することがないとうつむき、自分を頼ってくる人は誰もいなくなった、自分は誰の役にも立っていないらしい、いてもいなくてもいい存在になったと孤立していく孤独者には、どんな“処方箋”が効くのでしょう。それとも “処方箋”自体、不要なのでしょうか。扉を叩いたとき、「ひとりで生きて、何がいけないんですか?」と扉の向こうから答えが返ってきたとしたら……わたしたちには何ができるのでしょう。

 

解を、医療や福祉行政だけに求めるのは短絡的です。社会学、哲学、死生観のプロである宗教学のほか、「学」はもういいから ともかくこうしたいんだよ、これはイヤなんだよといった素朴な意見をブレンドし、横断的な解析を繰り返しながら 実践→失敗→原因分析→再構築→実践といったPDCAを回していったとき、解らしき手法が見えてくるような気がします。

 

 

参考資料)

一人暮らし高齢者に関する意識(内閣府) から抜粋

1.幸福感、不安に関する意識

高い幸福度を感じる男性は、女性の半分

「とても幸せ」を10点、「とても不幸」を0点として、現在どの程度幸せと感じるかをみると、平均は「6.59」点。0~4点の合計は11.3%で、5点を選択する人が28.3%と最も多い。8点以上の割合を性別にみると、女性は10点(18.0%)、9点(8.5%)、8点(17.1%)で合計43.6%と、半数近くになっている。男性は10点(8.4%)、9点(4.1%)、8点(10.2%)で合計22.7%と、女性の約半分しかない(☆)。

 

日常生活の最も高い不安は健康や病気のこと

「日常生活の不安」についてみると、健康や病気のこと(58.9%)とする人が最も多く、次いで、寝たきりや身体が不自由になって介護が必要となる状態になること(42.6%)、自然災害(29.1%)、生活のための収入のこと(18.2%)、頼れる人がいなくなること(13.6%)といった順。一人暮らし高齢者のリスクとしては「介護」、「社会的孤立」(☆)、「貧困」に関連した不安が挙げられている。

 

2.人とのつきあいに関する意識

男性の多くは、ちょっとした用事では頼りたいとは思わない、あるいは頼める人がいない

日常のちょっとした用事を頼みたい相手をみると、子供がいる女性は「子」(46.1%)が最も多い。子供がいない女性は「頼りたいと思わない」(30.8%)が最も多く、次いで、親戚や友人以外の「その他の人」(17.4%)、「兄弟姉妹・親戚」(15.9%)、「近所の人」(12.8%)と多様。

一方、男性は子供の有無に関わらず「頼りたいと思わない」が最も多く、次いで「あてはまる人はいない」が続く(☆)。

 

一緒にいるとほっとするのは子。そのほか男性は「あてはまる人はいない」、女性は「友人」が多い

一緒にいてほっとできる相手をみると、子供がいる人については、男女とも子(男性34.0%、女性58.8%)が最も多いが、次いで、男性は「あてはまる人はいない」(32.1%)(☆)、女性は「友人」(27.9%)の順。一方、子供がいない人については、男性は「あてはまる人はいない」(51.4%)が半数以上(☆)となり、女性は「友人」(33.8%)、「兄弟姉妹・親戚」(31.8%)、「あてはまる人はいない」(27.2%)と多様。

 

会話の頻度が高いほど楽しみが多い

一人暮らし高齢者の「現在の楽しみ」の上位5位をみると、「テレビ・ラジオ」(78.8%)、「仲間とのおしゃべり」(53.1%)、「新聞雑誌」(44.0%)、「食事」(42.2%)、「散歩、ウォーキング、ジョギング」(31.7%)、の順。

会話を頻度別にみると、「毎日会話している」人は、ほとんどの項目で総数を上回っており(☆☆)、楽しみの幅が広いといえる。

子供のいない一人暮らし高齢者にあっては、特に男性において、一緒にいてほっとできる人や日常のちょっとした用事を頼むことができる人がいないという者が多い(☆)。

 

3.将来の準備に関する意識

子供のいない男性は、約1/3が看護や世話を頼みたい相手がいない

病気のなどの時に看護や世話を頼みたいと考える相手は、子供がいる人は男女ともそれぞれ「子」が41.0%、58.2%と最も多い。子供がいない女性は、「兄弟姉妹親戚」(35.4%)が最も多く、次いで「あてはまる人はいない」(21.5%)の順。一方、子供がいない男性が頼りたい相手は「あてはまる人はいない」(35.0%)、次いで「そのことでは頼りたいと思わない」(22.6%)の順。(☆)

 

約4割の人は孤独死を身近に感じている

孤独死を身近に感じるかについてみると、「とても感じる」「まあ感じる」を合計した『感じる』とする人が44.5%、「あまり感じない」「まったく感じない」を合計した『感じない』とする人が52.1%。

会話の頻度別にみると、孤独死を身近に「感じる」とする人は、毎日会話する人で38.2%、1ヶ月に1~2回の会話がある人では63.4%と、約2倍の差がある。(☆)

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