「認知症ではない」と言われた高齢者
攻撃的、怒りっぽい、不安はなぜ起こる?
お題)
認知症は心配ないと言われたけど、家族は戸惑っている、とのリクエストがありました。
認知症では、よく知られた行動特性がいくつかあります。
たとえば外出して自宅に戻れなくなって警察に保護されるような行動、庭やベランダ、室内にゴミが山のように積み上げてしまう行為、悪質な訪問販売やオレオレ詐欺など消費者被害に合いやすい点、運転していて道に迷ったり、駐車場に入れた車がわからなくなったり道路を逆走したり、ペダルの踏み間違いによる交通事故の増加、預貯金の出し入れなどができなくなるなどです。
どれも、えっ? と思う内容というより、認知症患者が増えてきた現代社会では、たしかにね……と思える内容です。
こうした行動が複数みられれば、認知症の検査をした結果、認知症もしくは軽度認知障害(認知症の一歩手前、グレーゾーン)との病名がつく可能性は高いでしょう。けれども認知症によくみられる行動様式や症状は、それだけではありません。たとえば頻発するもの忘れ、以前にはなかった攻撃的な行動や言動、ちょっとしたことですぐ怒る、不安な気持ちや抑うつ気分などです。
これらがいくつかみられるため病院で調べてもらったところ、「認知症とはいえません。治療は不要です」と説明されて困っていると来院される例が、よくあります。
加齢に伴って生ずるこうした行動様式や症状に対して、わたしたちはどう向き合っていけばよいのでしょうか。それには人間そのものへの解析や理解が役に立ちます。
生物学的な原点に立ってみた場合、人間はどういったいきものと形容することができるでしょうか。
人間は社会的動物であると述べたのは、古代ギリシャの哲学者アリストテレスであると高校の教科書にも載っています。人間は個人として存在していても,その個人がそれぞれに独立して自活生活をしているのではなく,絶えず他者との関係において存在しているというのが、アリストテレスの指摘です。ことばを換えていえば、社会のなかで生活することで人間の生存は維持されるのであり,社会なくして個人は存在しないといった意味です。たしかに社会のなかで人間は相互に依存し、関係し合わなければ、人間らしい生活を送ることができません。
つまり人間は社会的ないきものである、というのが一つ目の答です。
ところで相互に依存するとはどういうことでしょうか。結論をいえば、分業社会の一員として生きるという意味です。わたしはこの部分を請け負う、あなたはその部分を請け負う、あの人はあの部分を請け負ってくれている。そうした分業の山が社会を構成しているからこそ産業が生まれ、文明や文化が生まれてきたのです。
分業社会のなかで生きていくにはルールがあります。たとえば欲しいと思ったモノを持ち去って使えば、たしかに便利なうえに楽です。けれどもそのモノを生み出すのに他人の手が加わっていたなら、そのモノには社会的価値があります。ですからモノを持ち去る行為には盗みや窃盗という「やってはいけない札」が付けられました。
やってはいけない札が付けられた人は罰せられる、というのが社会のルールです。ですからルールとは、生まれ育ってきた社会の秩序を保つために、事後的に作り出された約束ごとといえます。
幼小児にはある時期、この“窃盗行為”がしばしばみられます。となりの子が持っていたキャンディをこっそり取っちゃったのが見つかったとき、その行為はダメと周囲のオトナが教えることで、悪いこととしての認識が生まれるようになります。
しかし、よく考えてみると、他者のモノを取ってしまう行為がなぜダメなのかをわかりやすく幼小児に説くのは、じつに難しいと思いませんか? 相手つまり子どもは、欲しかったから取ったのだというでしょう。
欲しいモノを手に入れるという行為は、分業社会の一員として生きる以前からみられた行為です。
いわば動物としての人間に備わっていた行動様式なのです。
欲しいものを手に入れたいなら対価に見合うなにかと交換しなさい、というのが社会的ルールですが、事後的つまり後天的に身に着けてきたはずの社会的ルールが次第におろそかになってしまい、クレームを受けるようになった高齢者をしばしばみかけます。たとえばゴミ屋敷と化した部屋で過ごす人。部屋を乱雑にしたところで「やってはいけない札」は付きませんから、罰せられることもありません。しかし臭気を放つようになると周囲が動き始めます。
その人は、分業社会の一員として生きていくなかで、ゴミは生活空間に放り出さず、ちゃんとゴミ箱に捨てるような教育を、一度は受けてきたはずです。面倒くさいなと思っていたとしても、それが家族で生きるためのルールだからひとまず守っていたはずなのです。ゴミ箱はあとで親がまとめて捨ててくれていたのでしょう。
しかし、ひとり暮らしをすることになれば、コンビニで買ってきたものを食べただけでもゴミは出ます。さしあたりそこに置いておくかと放っておいたものが、だんだん堆積してくる。でも不用意にゴミを捨てれば、分別されていないとマンションの管理人や行政から叱られますから、出しにくくなった。それが昂じて、気がつけばゴミ屋敷になっていたという構図です。
けれどもゴミ屋敷と呼ぶのは他人であって、本人はまるで気にしていない点が厄介です。
ところでゴミ屋敷化した部屋は、なにも認知症の高齢者だけでなく、若い人や熟年層にみられても不思議ではありません。後付けされたルールがぼろぼろ剝がれてくると、傍若無人になっていきます。簡単に剥がれてしまうかどうかは、加齢だけでなく、その人の性格にもよるのでしょう。
さあて社会的にうまくいかなくなる人が出てくる理由は、……加齢や性格だけでしょうか?
怒りやすくなったり、不安な気持ちや抑うつ気分がみられるのは、じつをいえば珍しいことではありません。わたしもあなたも一度ならず何度も経験しているのではないでしょうか。
よくあるのは、イライラが増えたときです。そのようなとき、もの忘れや攻撃的な行動や言動がみられることは、これも多くの人が経験済みのはずです。
現代社会はイライラしやすい環境が整っています。なぜだかわかりますか? 予想や計画が優先される社会になってしまったからです。天気は予報どおりになるはずと思い、仕事では一年間の個別目標が立てられ、それが宿題になったりします。電車は時刻どおりに来ると信じ、午前着の宅配便は12時までに必ず着くはずと思って、その日の行動計画を立てます。
ですから予想や計画が少しでもズレると「おかしいじゃないか、許せない」と怒ったあと、イライラが頭をもたげてくるのです。
そのような“予見社会”に、わたしたちは慣れすぎてしまったのでしょう。
ちょっとしたことが許せなくなって行動に出る人は、後付けされた社会的ルールが、おろそかになっています。耐性の低下によって、後天的に身に着いた社会的ルールが剥がれ落ちてしまうと、社会性に欠けた動物に成り下がります。そうなると「おまえ、昔と変わったな」とご主人から呆れられ、「あなたにはついていけない」と奥様からさじを投げられるようになります。
イラっとしたところで「相手にも事情があるのだから」と思える人は、社会的ルールが身に着いたまま寛容でいられますから、その場に留まることができます。
人間は、どういった特性をもつ生きものなのかに対する二つ目の答――それは、人間は感情の生きものといった捉え方です。
感情は理性で抑えよといわれることがありますが、それは誤りです。「頭ではわかっているんだけどねえ」というように、理性によって感情を抑えることはできません。感情を抑えることができるのは、規範つまり社会のルールです。絶対に許せないと思っても、相手に危害を与えてはいけないとブレーキをかけるのは規範です。
恐怖や怒りは、サルのような動物にもみられます。ヘビを見たサルは、恐怖の表情になります。恐怖の中枢である扁桃体を人工的に破壊されたサルは、ヘビを見ても平然とした表情でいられます。
ですから恐怖や怒りといった感情は、たしかに瞬時に起こるのですが、最近の認知科学の知見によれば、感情は単なる反射でなく、非常に複雑で柔軟性のあるシステムに宿っていることがわかってきました。それはわたしたち人類が長い期間をかけて受け継いだ生物学的特性と、いま生きている文化の双方から影響を受けています。
年を取るにつれ、感情がむき出しになっていくのは、ある意味自然現象かもしれません。
理由は、規範つまり社会的ルールとは、後天的に植え付けられた手段ですから、後付けなりに劣化しやすく、本性ともいうべきむき出しの部分が表在化する可能性が高いからです。
感情に関して、もうひとつ大事なことがあります。それはショックなできごとや驚愕に襲われると、そのあと感情がアタマに居座るようになるため、混乱が長引くのです。
たとえば長く連れ添った相手が亡くなったとします。そのときからボーっとした気持ちになって、亡くなった事実が頭を占拠し始めます。ああしておけばよかった、もう少しなんとかできたのではないか、可哀そうなことをしたといった悔いる気持ちや、これからひとりで生きていけるだろうかといった不安な気持ちが根強く頭を駆け巡ります。
そのような状況に陥ると、外からの情報がまったく入ってこなくなります。何を聞いても上の空、やることなすことがちぐはぐでどうもおかしいため認知症になったのではないかと周囲は心配します。
そのほか、高齢者にみられる抑うつ状態やうつ病でも、似たような症状がみられます。不安な気持ちや抑うつ気分に包まれるのはもちろん、大丈夫? など他人からの介入が増えると面倒くさくなって、つい攻撃的な行動や言動になったり、ちょっとしたことで怒りやすくなります。
ともあれ、なんらかの手を打つ必要があるかどうかは、社会生活への支障の有無によります。度を越した行為がみられる場合は、行政への相談や、医療機関を受診するようにしてください。