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浜辺の診療室から

人生最後の日に、
悔いのない人生だったと言えますか?

  • 生をめぐる雑文

もし今日が人生最後の日だったら、あなたは後悔を口にしますか。
もしそうなら、それはどのようなものですか。

 

『死ぬ瞬間の5つの後悔』(新潮社 2012年 ペーパーバック)という本があります。筆者は、人生最後の時を過ごす患者たちの緩和ケアに数年携わったオーストラリアの Bronnie Ware さん。

彼女によると、死の間際に人間はしっかり人生を振り返るといいます。

また、患者たちが語る後悔には、同じものがとても多いともいいます。

死を間近に控えた人々が口にした後悔の中で、多かったものトップ5を紹介しましょう。

 

1.自分自身に忠実に生きれば良かった

自分の気持ちに嘘をつくことなく生きれば良かったといった後悔です。

Ware さんによれば、これがもっとも多いそうです。

人生の終わりに、じつは達成できなかった夢がたくさんあったことに気づきます。本当にやりたかったことや叶えたかった夢を前にして、なぜ挑戦しなかったのかと考えてしまうのでしょう。

それとも古い慣習や、安全で無難な生き方に染まったほうが人生を快適に乗り切れると信じてしまったのでしょうか。無意識のうちに“変化”を恐れて、必要だった大事な選択を避け続けてきた姿勢に遅まきながら気づき、悔いを抱えたまま生を終える人が多いようです。

 

たしかに生活でも仕事でも、変えないことつまり現状維持が一番楽だし、無難です。

だから不本意な気持ちがあっても波風立てることは避け、穏便に穏便にと過ごしてきたのです。

しかしそうした保守的な姿勢を貫くことで、何が残ったのかと見回してみればエンプティの世界。

ただただうなだれるしかないのです。

 

 

2.あんなに一生懸命働かなくても良かった

男性の多くが、この後悔を口にするようです。

仕事に時間を費やし過ぎず、もっと家族と一緒に過ごせば良かったと感ずるようで、わかる気がします。

 

一所懸命働くことを否定しているのではないのです。

仕事に向けられた情熱や時間の一部を、ほんの少しだけでいいからもっと大切なことに使えばよかったと悔やまれるようです。“大切なこと”は、たとえば家族との時間であり、たとえば仕事以外の時間だったりします。

命が終わろうとしているとき、本当は自分の近くに寄り添っていて欲しかった人や事が 何ひとつないことにたじろぎ、うつむいてしまう……わかる気がします。

 

 

3.もっと自分の気持ちを表す勇気を持てば良かった

1.の後悔に似た思いです。

自分の気持ちに嘘はなかったけれど、その気持ちや想いを表に出すことなく過ごしてしまったのは、ひとえに勇気がなかったからだと悔いが残るようです。

なぜあそこで黙ってしまったのだろう、どうしてあのときから感情を握りつぶした日々を送っていたのだろうと、自分の気持ちを封印したまま消えるように生が終わってしまうことに忸怩たる思いが消せません。

要所要所で感情を飲み込んできた結果、可もなく不可もない存在で終わってしまったとの無念さが漂ってくるようです。

 

 

4.友人関係を続けていれば良かった

残された時間が少なくなると、他人である“友”との関係を、無意識のうちに思い出しているときがあります。その友とは疎遠になったまま、かなりの時間が経ってしまったことを知ります。

関係が途絶えた原因は何だったのか、途絶えつつあると思っていながら、具体的なアクションをひとつも起こさなかった理由はどこにあったのだろう……。

 

かつて孔子は “故旧は大故なければ則ち棄てず” と説いていました。

    古いとも(朋・友)であるなら、よほどのことがない限り見捨てはしない。

    多少の過ちや裏切りがあっても許す。それが老朋友――。

 

あれこれ考えているうち、あることに気づきます。たしかに仲はよかったけれど、自分に対して彼や彼女たちは何をしてくれたか? 彼や彼女たちに自分は何を期待していたのだろう?

だとしたら、関係を続けることに、もはや意味を見出せなくなって放り出したのではないか。

もしそうなら、あまりに打算的で、自分本位な姿勢だったのだから自業自得というもの。

度量の狭さゆえの行為が網膜にありありと映し出され、呆然としている姿が目に浮かびます。

 

 

5.自分をもっともっと幸せにしてあげればよかった

元気なうちは、幸福は自分で選ぶものと気づけなかった人が、とても多いようです。

社会が他者との共存によって成り立っていることはたしかです。人は、ひとりだけで生きることはできません。だから自分のことは後回しでいい、子どものため、主人のため、孫のためと思いながら日々を駆け抜けてきました。

 

でも……と思うのです。

世のため人のためと教えられ、少しでも社会貢献がしたいとの思いから、多くの選択を経て進むべき道を自ら切り開いてきたと信じてきました。けど、そこに自分の意思は反映されていただろうか。いつも相手ばかり見ていなかっただろうか。

気がつけば、老後はあれがしたい、これもしてみたいといった望みはなにひとつなく、ずっとひとりぽっちのままでいた自分に気づくのでしょうか。

あるいは親の意見や世の風潮に流されたまま、周りの目ばかり気にして、つつがなく生きてこられたと思っていたのに、それは錯覚で、八方美人や風見鶏のような生き方をしてきたことで、自分の中心にぽっかりと穴が空いている――その空洞を抜けていく風の音に、たじろいでいるのでしょうか。

 

 

 

死の間際に人間はしっかり人生を振り返ると、Bronnie Ware さんは言いました。

5つの悔いは、どれもわたしたちが忙しさにかまけて隅に追いやっていた課題への代償です。

日本人が欧米人と同じかどうかは別にして、

まもなくさよならをするときが近づいているとき、

からだひとつになった自分と正面から向き合いながら、

わたしたちはどんな思いに駆られるのでしょう。

 

 

追補)

悔いが残るとはいえ、このような感想を漏らせる人は幸せだと感じます。

ずっと以前のこと、老いびとの心情を聞いたことが数例ですが、ありました。混迷のなかにあって、ふと清明な意識が訪れたようで、そのとき死を目前にした人の口から希望や懺悔、残したいこと、残せなかったこと、感謝などのことばが漏れました。その方々は苦戦はされていても終末期でなく、退院の可能性こそないものの、低空飛行なりに血圧も呼吸数も安定した状態にありました。

 

老いて悔いを漏らすのは、なにも重い病態になってからでなくとも、還暦を過ぎれば後悔のひとつやふたつはあるはずです。ですが初老の人が漏らす後悔と、終末期に漏れる後悔は、内容がまったく異なる気がします。

 

 

平成から令和になって、こうしたことばを聞けた記憶がありません。人生を振り返る余裕などない終末期に置かれている方を看取る機会が大半だからでしょう。老衰が進むと、あるときから意識レベルが落ちてくるため、語られることはなくなります。オピオイド(麻薬)を使っている人も、清明な時間帯は限られていました。今なら振り返ることが可能なはずと思われたとき、人は歩んできた道を振り返ることなく、別のなにかに没頭していました。

 

 

どのような状況に置かれたとき、人は掛け値なしの心情を漏らすことができるのでしょう。

わたしたちは死に寄り添うことを遠ざけてしまい、もうひとつ、またひとつ手を打とうとします。これもまた、“あきらめない”姿勢や家族の希望を盾に、正義めいた姿勢にかまけて「老いの声」を隅に追いやっているのでしょう。終末期に及んでも、医療が介入し過ぎているのかもしれません。

もしそうであるなら、せめて看取りの前に訪れる「前看取り期」を大事にして欲しいのです。老衰に向かってはいるけれど、まだ余力が残されている時期です。

前看取り期を確保するには、“一年前と違ってきた”など定点観察が効果的です。施設であれば、ご家族を呼んで家族だけの時間を設けるとよいでしょう。

 

コロナの時代、ご家族の面会が許されない時間が流れています。そのようなときはスタッフが寄り添って、漏れ出てくることばに耳を傾けてみてください。

目次

生をめぐる雑文

新型コロナウイルス感染症

老いるということ

認知症

高齢者の終末期

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