50年ほど前の映画ひまわり
- 生をめぐる雑文
ロシアとウクライナの紛争が激化しているからでしょうか、
映画ひまわりが緊急上映されるとのニュースをみました。
この映画はイタリア・フランス・ソビエト連邦・アメリカ合衆国の合作で、1970年に公開され、日本でも1970年9月から上映されました。原題タイトルはイタリア語の I Girasoli。ひまわりのことで、この映画の日本名も邦訳のままの ひまわりです。
夫婦してイタリアで暮らしていた夫に招集がきて戦地に赴くのですが、消息が取れなくなったため、妻はかつてイタリア軍が戦闘していたというソ連南部に位置するウクライナの町に行ったものの、依然消息がつかめない……。そんなときに、すでに亡くなっている可能性もあると連れていかれたのが、ひまわり畑でした。地平線の彼方まで一面に広がるひまわりの下に、無数の兵士や捕虜、農民たちが眠っているとの説明を受けるシーンがあり、そこであの有名なテーマ曲が流れます。
映画ひまわりでは戦争の悲惨さ、生き別れになることの辛さ、どうしようもないできごとなど、生きていく上での理不尽がテーマかもしれません。そして生まれた時代性や、ちょっとしたすれ違いで運命が変わっていくこと、それによって一度失われた愛が戻ることは決してないという非情さも通奏低音的なテーマです。やるせなさにうつむく鑑賞者をやさしく包んでくれるのはSunflowerでなく、あえてLoss of loveの名を与えられた 映画ひまわりのテーマ曲です。
映画が制作されてから50年以上が経ち、高度文明社会になりました。必要なものはひととおり揃い、便利な世の中になりました。けれどもウクライナでは毎日のように砲撃が社会そのものを砕いていき、多くの人が理不尽さを抱きながら生き、また亡くなっています。その様子をみると、人類が栄えるのも人の力であれば、人類を滅ぼすのも人の力だとつくづく感じます。
いま起きている紛争で、気になる用語があります。非人道的兵器です。
生物化学兵器や核兵器のほか、小さな爆弾をばらまくタイプで対人地雷と同等の効果を持つクラスター爆弾や、弾頭を加工して体内で開きやすくした銃弾であるダムダム弾は、無差別兵器や残虐な影響を残す兵器として非人道的兵器と呼ばれるそうです。
けれどもわたしには、その意味がわかりません。
「非」の取れた人道的兵器とは、いったい何を指しているのか理解できないのです。
人を一瞬で殺してしまうマシンガンやライフルは、人道的なのでしょうか。
高度文明社会になったのに、
人道的か非人道的かのちがいもわからなくなってしまったと途方に暮れながら、
静かな海を眺めています。