埋もれがちな “眠っている才能”
人生は自分を創ること?
それとも自分を見つけること?
- 生をめぐる雑文
アイルランドの文学者で、脚本家、劇作家でもあるバーナード・ショーはノーベル文学賞受賞者でもあります。菜食主義者(ベジタリアン)としても知られ、「私は現在85歳だが、これまでと同じように元気に仕事をしている。もうかなり長く生きたので、そろそろ死のうかと思っているのだが、なかなか死ねない。ビーフステーキを食べれば、ひと思いに死ねると思うのだが、私には動物の死体を食べるような趣味はない」といった言葉を残しています。
バーナード・ショーが残した言葉といえば、次のアフォリズムもよく知られます。
Life isn’t about finding yourself. Life is about creating yourself. (Bernard Shaw)
人生とは自分を見つけることではない。人生とは自分を創ることである。(バーナード・ショー)
力強く生きた人だからこそ、そう言えるのでしょう。
でも、人生とは自分創ることか、それとも自分を見つけることかと問われれば、
わたしは後者の、自分を見つけることのほうに一票を投じます。
星野富弘さんという方をご存じの方も多いと思います。
水彩画やペン画に詩を添えた作品をたくさん世に送り出しています。
星野さんは教育学部を卒業されたあとの1970年、市立中学に赴任しました。
その2か月後、体操部の指導中に宙返りの模範演技をしようとして失敗し、頚髄損傷という重症を負いました。肩から下の機能がマヒ状態になったのです。
9年間の入院生活を経て退院したときは、口にくわえた筆で水彩画やペン画を描くようになっていました。才能を発掘した目利き役は教育学部におられた後輩で、その方が奥さまになられています。
目利きの大事さとともに、才能についてあらためて考えさせられる話です。
体操の能力と、絵を描くことの能力は、おそらく別物です。双方とも備わっている人もいれば、片方だけという人もおり、いずれもないといった人もいるはずです。
けれどもそれは、誰がどこで知るのでしょう?
たとえば星野さんが大きなケガを経験することなく定年まで教員生活をしていたとしたら、現在の美術館に収められた絵が描けていたでしょうか。あれだけ人の心に訴えてくる作品を作ることができたでしょうか。
描けていたかもしれないと思います。
しかしひょっとしたら、描けていなかったような気もします。
描けていたのであれば、在職中や定年後に、ふとしたことがきっかけになってやってみたからこそ描けたのでしょう。やっているうちに、ずっと奥にしまい込まれていたものが、遅ればせながら目覚めていったのだと思います。
一方で、残念ではありますが、アクシデントや挫折がカギになって、奥の奥にしまい込まれていたものが開けられた、ということはないでしょうか。
カギに巡り合えたことは幸いですが、人生を変えてしまうほどのアクシデントに遭ったからといって、誰もがすぐれた絵や文字が描けるわけではなく、こころに響く詩が作れるわけでもないのです。開けてみたらエンプティ(空)だったり、中身はがらくたばかりだったりすることもあるはずです。
挫折の色合いが濃いことと、潜在能力があること、そしてそれが発揮されることは、まったく独立した事象です。どういった潜在能力があるかは、自分にも周囲にいる人にもわかりません。ものごとは所詮、やってみなければわからないのです。
長く生きていると、あのときが分岐点だったと思えることがあります。こちらを選んだけれど、あちらにいっていたらどうなっていただろうと思う日々の連続が、生きるということなのでしょう。
選択するにあたっては、自分が選んだ道だと思いがちです。たしかに判断し、決定するのは自分です。けれどもやむなく選んだ結果が不幸や失敗の始まりと決まったわけではなく、むしろ眠っていた才能を目覚めさせてくれるきっかけになることもあるのは、星野さんの例をみるとよくわかります。
大概の人、おそらく9割以上の人は、そんな才能があったことも知らぬまま死んでいくのです。
だとしたら、自分も知らなかった才能が、それも尋常ではなく非凡な才能が誰かの手によって開かれる……なんて、ステキだと思いませんか?
芦北町立星野富弘美術館(熊本県)